サガン鳥栖 小林祐三選手 インタビュー 後編 「レイソル、マリノス、サガン鳥栖。3クラブの記憶と、そして新宿」

サガン鳥栖 小林祐三選手 インタビュー 後編 「レイソル、マリノス、サガン鳥栖。3クラブの記憶と、そして新宿」

2021シーズンから クリアソン新宿の仲間になることが発表された、サガン鳥栖(J1)の小林 祐三 選手。17年間のプロサッカー人生に終止符を打ち、関東リーグに移籍、そして株式会社 Criacaoで社員として働く。その決断の裏には何があったのか。引退、クリアソン新宿への移籍を語った前編と、柏レイソル、横浜F・マリノス、サガン鳥栖での思い出、新宿という街への決意を語った後編の、二編にまたがるロングインタビュー。

涙をこらえながらプレーした

17年間で柏レイソル、横浜F・マリノス、サガン鳥栖と3クラブを渡り歩きました。それぞれのクラブで「最も印象に残っているシーン」を教えてください。
レイソルがキャリアの中で最も長く、7年間いました。僕の世代の選手に聞くと、マリノスではなくレイソルのイメージが強いと思います。高卒の18歳でプロになって、レイソルには「1人前になるかならないか」くらいのときに所属しました。

柏は特別な街です。僕の全部が詰まっています。柏に行くと、横浜とはまた違った、俗に言う「エモい」という気持ちになります。オンでもオフでも、良いことも悪いことも、たくさんありました。年齢的に、自分という人間が形成される時期に、あのクラブでプレーできて良かった。レイソルでの経験は、全てが血肉になった感じがします。

僕が加入した2004年頃、レイソルには日本代表クラスの選手がたくさんがいました。しかし、J2に降格した2005年に多くの選手が他クラブに移籍し、残った選手で昇格を目指すことになりました。

最も印象に残っているのはその翌年、J2を戦った2006年です。当時のJ2は、札幌にフッキ(上海上港)、山形にレアンドロ(東京V)、湘南にアジエルなど、反則級の外国籍選手がいて、熾烈な環境でした。昇格のために、本当にたくさんのことを削ぎ落として、すべてをかけて戦いました。

最後レイソルは、ヴィッセル神戸と J1昇格を争っていました。レイソルはリーグ最終戦で湘南に勝っても、同時に試合をしている神戸が仙台に勝ってしまうと、昇格はできないというシチュエーションでした。

その最終戦、レイソルは64分の時点で3-0で勝っていたので、あとは神戸の結果次第ということになり、ピッチの中からベンチに向かって、神戸の試合のスコアを確認しようとしました。すると、CBを組んでいた近藤直也(東京V)選手が「仙台が勝ってるぞ」と耳打ちしてくれました。

それを知ってから、また試合中だったんですが、涙が溢れそうになってきて…。笛が鳴るまでずっと、涙をこらえながらプレーしました。ああいう気持ちは、あれが最初で最後。あのときに勝る感情はないなと思います。

高卒3年目はまだ若手だと思います。しかしなぜ、クラブを背負ってプレーできたのでしょうか
ありがたいことにプロになるとき、複数のクラブからオファーをもらっていました。J2に降格したときは「違うクラブに行けば良かった」とも思いました。個人としては、前年の2005年にU-20ワールドカップ、当時はワールドユースという名前でしたが、その代表に選ばれ、世界との差を痛感しながらも手応えも得ていました。そのときのメンバーが J1で前に進んでいるのに、自分は J2を「やらされる」と。

でも、それ以上に思ったのは、自分がクラブを決めて、自分が試合に出て J2に落ちて「全部、自分のせいだな」と。組織のせいにするという選択肢は浮かびませんでした。自分でまいた種は、自分で刈らなければいけない。だからこそ、2006年は J1昇格のために人生をかけて戦った。大袈裟ではなく、本当に人生をかけて戦ったシーズンでした。

振り返ると、レイソルには小さいけれど渦ができるようなスタジアムがあって、熱いサポーターがいて…。昇降格にも関わって、クラブとしては厳しいフェーズだったけど、だからこそ、人生の早いタイミングで「組織を背負って戦う」という感覚を覚えた、覚えることができた。

強いチームに入って、そこでポシジョン争いをして自分を磨く方法もありますけど、僕は、柏レイソルというクラブを選んで、こういう経験ができて、本当に良かったと思っています。

評価というものは難しい

2011〜16年は横浜F・マリノスでプレーされました。
小学2年生のときに Jリーグができました。地元にチームがなかったので、Jリーグのど真ん中を生きる世代としては、オリジナル10で、横浜という都会的なイメージがあって、憧れのクラブでした。

マリノスには6年いましたが、10年くらいいた感じがします。ほとんどの試合に出たし、大したものではないけれど、僕自身のキャリアの最高到達地点でした。たくさんの人が応援してくれて、人生で唯一のタイトルを獲ったのも、結婚して子どもが生まれたのも、マリノスにいたとき。良い思い出がほとんどです。

忘れられないのは、2013年です。2試合を残して、あと1勝すれば文句なしの優勝。しかし、ほとんど手中におさめたはずのタイトルを逃し、広島に逆転での J1連覇を許しました。そこで燃え尽きた感じがして…未だに切り替わっていないかもしれません。それくらい喪失感がすごかった。

個人としても、2013年の前後数年はもっと評価されても良かったんじゃないかと思っています。2016年にリーグ戦 33試合に出場しながらもマリノスをアウトになったことも含めて、外的評価というものに不毛さのようなものを感じていました。

コンプレックスではないんですが、評価というものは本当に難しい。評価に依存しすぎたり、それで自分のやっていることを測りすぎるのは良くないと気づきました。「他人から評価されてナンボ」というのは大前提です。でも、大前提だからこそ「自分の心をそっちに持っていきすぎるとキツい」そんなことを考えていました。

クラブを前に進めることができなかった

そして横浜F・マリノスを去り、サガン鳥栖に移籍しました
サガン鳥栖での4年は、葛藤した4年だったなと思います。ああいう形でマリノスを離れたので、心の整理がついてなくて。今も…無理に整理をつけようとは思っていないんですが、招き入れてくれた鳥栖に感謝しています。

加入会見のときに「このクラブを前に進めたい」と言いました。自分のプレーに自信があったし、自分の言葉が生まれてくる感覚もあったので、貢献できると信じていました。しかし結果的に、それを実現することができなかった。心残りです。

それでも、最後の5試合を降格圏で迎えた2018年、金明輝監督が就任して、僕に色々なことを任せてくれて。3勝2分でチームを残留に導けたときは、嬉しかったです。

ホーム最終戦はマリノスだったんですが、そのとき、鳥栖に来てからのベストゲームとも言えるプレーができたことは、今でも自信になっています。僕は「ここでできたら本物だ」という究極の場面で、今までずっとやれてきたんです。だから、自分に嘘をつかずに続けてこられた。これまでの人生で、そういう試合が数試合あって、マリノス戦もその 一つです。

翌年も、シーズン序盤は 1人のプレイヤーとして厳しい立場に置かれたシーズンでした。よく折れなかったと思うけれど、それでも、自分の中に確固たる自信があったので耐えることができました。

プロ選手としては終わったけれど、フットボーラーとしての全部をかけたい

おそらく最後のクラブになるであろう、新宿のクラブに移籍しました。新宿という街について、どんなことを思っていますか
僕は、東京都羽村市出身なんですけど、最寄り駅のある青梅線から、真っ直ぐ伸びたのが中央線で、新宿はそのゴールのような街でした。

18、19歳で、はじめてお給料をもらって、Barneys New York(日本1号店である新宿店)や伊勢丹(新宿本店)で、今までは手が届かなかったようなお洋服を買って。作りたてのクレジットカードで払った日のことは、鮮明に覚えています。住んだことはないんですけど、よく遊びに行っていました。

新宿は「縮図」のように、様々な世界がぎゅっと詰まっていて、数百m歩くと、違う表情が見えます。何でも揃っているので、その中に「サッカーは必要なのか?」という話なんですけど、裏を返すと「何でもあるのにサッカーはない」わけです。これがクリアソン新宿の可能性であり、新宿の可能性でもあります。

世界を引き合いを出すのもどうかと思うんですけど、例えばロンドンには、中心部から 5km圏内に、アーセナルとチェルシーがあります。一方、Jリーグはもうすぐ30年くらいで、まだ東京23区内にクラブがないというのは、みんなが思っている以上にレアケースだと思います。土日の23区にどれくらいの人口がいるか分からないけど、その顧客をみすみす他の商業に渡しているのは、とてももったいない。

都心で Jリーグクラブをつくるには、スタジアムの有無が難しい条件ですが、コロナでダメージを受けている中では、そうした指標で測ること以上に大事なことがあるのではないか、と思います。サッカーが生活に馴染み、Jリーグが発展していくためには、都心にクラブが必要だと思います。あくまでも、こちら(クリアソン新宿)側に寄った理屈になってしまいますが。

とはいえ「都心・新宿にあれば、どんなクラブでも良い」というわけではありません。クリアソン新宿は、既存の Jリーグクラブと比較すると後発なので、きちんと意味づくりをしていくことが大事です。

Jリーグはずっと「地域密着」を掲げてきたわけですが、自分の見えている範囲では、まだ、それを実感できる機会は少なかった。Jリーグの理念の叶えるためにだけやるわけではないけど、クリアソン新宿と新宿の関係であれば、サッカーを使った地域の課題解決のようなものを体現できるのではないか、と思っています。

自分のサッカーの価値、その行き先がなくなっている感覚は、前編でもお話ししました。しかし、このサッカーの追求はやめたくない。だから、この追求を、このクラブを通して価値に変えて、その行き先が新宿という街にあるとすれば、それは素敵なことです。

改めて、関東リーグという舞台で戦うことの決意をお聞かせください。
最後に J2でやったのが 2010年なので、J1以外のディビジョンでサッカーをするのは10年ぶりくらいになります。J1残留ではなく、下のディビジョンから昇格するのは、本当に難しく、そして違った意味合いがあります。あの手触り、自分のプレーがダイレクトに反映される感覚は、今でも僕の中に残っていて、だからこそ、とても楽しみにしています。

プロ選手としては終わった、けれど、フットボーラーとしては終わっていない。フットボーラーとしての全部をかけたいと思っています。

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