2024シーズン開幕前日に自問自答する、クリアソン新宿の掲げる「世界一」について

2024シーズン開幕前日に自問自答する、クリアソン新宿の掲げる「世界一」について

2024シーズンのJFLが開幕する。3年目、今年こそはJ3昇格を。しかし、クリアソン新宿が掲げる最終的な目標は「世界一」。突拍子もないこの「世界一」を、なぜクリアソンは掲げ続けるのか?それは実際のところどんな形をしているのか?その先に何が見ているのか?代表の丸山和大、フットボールアドバイザー兼クラブリレーションオフィサーの森岡隆三、選手兼執行役員の原田亮に考えてもらった。


―まず丸山さん、そもそもクリアソンが「世界一」を目標として掲げた経緯から教えてください

丸山:僕が桐蔭学園高校でサッカーやっていたときは、プロになるためにとにかく競技面を突き詰めました。でもそれだけに必死で周りに思いやりを持てず、サッカーの楽しさを半分ぐらいしか味わえなかった。立教大学ではサッカーサークルに入ると、上手い下手に関係なくさまざまな人がいました。3年で代表として日本一になることができたんですが、それは飲み会を盛り上げてくれる人、イベントを考えてくれる人、そういう総合力で勝ち取った日本一で、涙が出るほど感動したんです。自分が経験した「競技的に突き詰めるサッカー」と「サークル的に様々な人がつながる場としてのサッカー」をかけ合わせれば、新しい価値観で社会に豊かさを届けるチームが作れる。そういう想いで、クリアソンをつくりました。そして、サッカーはボール一つで広い世界とつながれるスポーツ。勝っていくことで、それをさらに世界に広めていくことができれば……これが世界一を目指しはじめたきっかけです。

―世界と闘った経験を持つ森岡さんは「世界一」を目指すことをどう感じていますか?

森岡:上を目指す必要性というのは、日本代表のときに強く感じました。1999年のコパ・アメリカに向かう前のトルシエ監督の言葉がずっと頭の中に残ってます。ある日、彼がハーフラインの向こう側に立って「本気で勝ちたいやつだけこっちに来い」と言ったんです。その大会は初戦でペルーに負けて、2戦目はパラグアイにも大敗したんですが手応えもあった。試合後、伊東輝悦(元日本代表、現アスルクラロ沼津)と「本当に手の届かないレベルの選手もいるけど、なんとかなるかもしれないというレベルの選手との差はちょっとだよね」と話しました。以前は「そろそろ時計ほしいよね」とか話してたんですけど「そんなことよりも上手くなりたい、勝ちたい」に変わりました。トルシエ監督は、どう自分たちの視座を引き上げるかを考えていたんですね。帰国してからは自分の頭の中が変わり、一つのパス練習からすべてが違うものになりました。視座が「世界」になった瞬間に、一気に自分が引き上げられたんです。

ーでは、そこから世界を意識してやってきたんですね

森岡:3歳からボールを蹴りはじめて、サッカーに夢中な日々がいまだに続いています。ただ、僕はこれまでキャリアの中で、明確に「世界一」を目指した記憶はないんです。クラブではその組織が少しでも上にいけるように精一杯やってきました。W杯に出たときも当時は予選突破が命題で期待に応えるしかないという感覚でした。でもクリアソンと出会って、クリアソンの「世界一」や「世の中に豊かさを届ける」ということを恥じることなく堂々とそれを王道に変えていこうとする姿勢に心を打たれて、それではじめて「世界一」が自分ごとになりました。

丸山:隆三さんと出会ったとき、クリアソンはまだ東京都2部。「結果を出してから話せよ」と言われてもおかしくない中で、自分なりの世界一へのアプローチを伝えた時に「そういう考え方も確かにあるかもしれない」と隆三さんは笑わずに聞いてくれましたね。

―結果的に、その「世界一」という目標が、森岡さんの加入にもつながりました

丸山:日本人でサッカー界で世界一になった人はまだいません。人類が宇宙を目指したときのように、誰もその成功体験を持っていないんです。ゲームをクリアしたことのある人は、そのゲームに関わっても還元型になってしまいます。「日本一」であれば隆三さんには「こうすればいいんじゃない?」というのがあると思います。でも「世界一」であれば隆三さんと一緒に斜め上を見上げて「この山、どうやって登りましょうか」って考えることができる。一緒に登ることができる。こういう目標を掲げることの良いところです。

―原田さんは新体制発表会でマンチェスター・シティを例に挙げ、この「世界一」というものに対して問いを立てていました

原田:世界一の最も分かりやすい指標は競技成績です。最短でクラブW杯がある2029年に手に入れることができます。ただ今年から社長室に自分の役割を移し、改めてクリアソンとして目指したいものを整理しました。競技成績だけではなく、社会にどんなインパクトを出していけばいいのかということです。その一つに収益があります。パートナー企業が何社あるかとか、興行収入がいくらとか。それも分かりやすいんですけど、それ以上にサッカークラブには様々な側面があります。クリアソン創業と同時にスタートした「教育」、現在新宿区と一緒に頑張っている「地域振興」などが、2029年に競技成績で世界一になったときどんな状態になっているべきなのか。

丸山: 我々が足踏みをしたことと、ACL・クラブW杯のレギュレーションが変更になったことで、当初2025年と掲げていた世界一が最短で2029年になってしまいました。そこを目指すのは変わらないんですが、一方で、例えば今「サッカーを使った高齢者向けの健康プログラム」を提供していますが、これは10年前には想像できなかったサッカーの可能性です。日々そうしたことを目の当たりにして、目標も常にアップデートする必要があるなと感じています。

―そんな世界一を達成した後には何があるのでしょうか。

丸山:世界一になったとき、自分たちにマイクが向けられます。そのときひとりひとりがこの世界一を、自分の言葉で、自分のストーリーで話すのが楽しみです。世界一はみんなの積み上げの結果なので、選手・スタッフだけでなくクリアソンに関わったパートナーの方々など、いろいろな人がこの世界一に意味付けをして語る。そうするとその価値が大きく広がっていくと思います。

原田:僕が思うにまず重要なのは、先ほど話した通り競技成績で世界一になったとき、他の要素がどんな状態になっているかということです。それによって、我々がその結果を使ってできることが変わると思うので、今から向き合って考える必要があります。また別の観点では、僕は世界一と呼ばれる時代があったソニーで働いていました。自分が入社した時は、もう他の会社に先を行かれている時期でしたが、それでも感じたのは当時世界一を経験した人が「ソニーはこんなもんじゃない」という想いを常に心に持っていてたことです。世界一であり続けることは難しいかもしれないですけど、それを成し遂げられればその魂みたいなものは生き続けていく。それも重要かもしれません。

森岡:目標を叶えるとそこで満足する人もいますけど、クリアソンのメンバーはすぐ次の目標を見つけると思います。2000年にアジアカップで優勝したとき、嬉しかったんですけど「やったな!それで?」とも思ったんです。自分たちが喜んでいても、これをどう世の中に還元できるのか?という問いがあってそれがきっかけで新しい活動も始めました。クリアソンはすでにそういう地域活動にも取り組んでいるので、世界一になることでさらに豊かさを創造できると思います。

丸山:本当にワクワクしますね。社会を牽引するリーディングカンパニーは、トップだからこそ見える景色があるはずです。例えば即席麺業界のリーディングカンパニーは、カップラーメンが卸し値より低い値段で売られていると、それを買い占めてそのスーパーには今後商品を卸さないということをするらしいんです。カップラーメンの価値が安いものだと思われたら、他のカップラーメンを作る企業が生きていけなくなるからだと聞きました。すごくかっこいい話です。業界のリーディングカンパニーはそのコンテンツの本当の価値が何かを考えて、世界に発信している。我々も世界一はゴールではなくて、そこがスタート地点です。対戦相手に勝つことを考えるのも大事ですが、それと同じくらい今からリーディングカンパニーのような視座を持ち続け、サッカー界のために行動できればすごく面白い組織になると思います。


丸山和大(まるやま・かずとも)
1984年3月29日生まれ。神奈川県出身。桐蔭学園高時代はサッカー部に所属し、3年時には選手権にも出場。立教大時代にはサッカー愛好会に所属し、3年時には代表を務めサークル日本一に輝いた。大学4年時にクリアソンを発足。卒業後は伊藤忠商事株式会社にて7年間勤務した後、株式会社Criacaoを創業、代表取締役社長CEO。クリアソン新宿 代表。

森岡隆三(もりおか・りゅうぞう)
1975年10月7日生まれ。神奈川県出身。桐蔭学園高時代出身で、卒業後に鹿島アントラーズに加入。2年目の95年に清水エスパルスに移籍し頭角を表すと、99年には日本代表にも初招集された。00年のシドニー五輪ではオーバーエイジ枠で招集されると、チームのベスト8進出に大きく貢献。02年には日韓W杯にも主将として出場した。08年に現役を引退すると、京都サンガFCでコーチやガイナーレ鳥取で監督などを経て今年からクリアソン新宿のフットボールアドバイザー兼クラブリレーションオフィサーに就任した。

原田亮(はらだ・りょう)
1987年10月14日生まれ。神奈川県出身。慶應高時代には主将として活躍した後、慶應大に進学。理工学部体育会サッカー部でのプレーを経て、11年にクリアソン新宿に加入。慶應大大学院卒業後はソニー株式会社に入社し、13年、14年はチームを離れたが、15年に再加入。17年には株式会社Criacaoへと入社し、22年には執行役員に就任した。

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