「走り続ける取締役」。クリアソンで過ごした選手としての15シーズンを振り返り、今語ること。剣持雅俊 インタビュー

「走り続ける取締役」。クリアソンで過ごした選手としての15シーズンを振り返り、今語ること。剣持雅俊 インタビュー

今シーズン限りでの引退を決めた剣持雅俊。東京都社会人サッカーリーグ4部に所属していた2009年にジョインし、2013年の創業を経て、選手として15シーズンをかけてクリアソンを「創造」してきた男。

株式会社Criacaoの共同創業者、取締役COOでもある彼を、いつしか人は「走る取締役」と呼ぶようになった。

選手としての役割を終えて今感じていること、クリアソンの15年の歴史、そしてスポーツの価値を深め、広げ、繋げていくために走り続ける彼の、これからの話を聞いた。


チームは「スポーツの価値の研究機関」

ー選手を引退し100%ビジネスパーソンとしての活動がスタートしました

今は、これまで練習で使えなかった夕方・夜の時間帯に、人に会うスケジュールを埋めています。コロナ禍もあって、そうした活動が難しくなっていたので。以前からつながってた人に近況報告をしつつ、新しい人にも出会いに行っています。

ー「引退という言葉に違和感がある」とも言っていました

スポーツの価値を「広げる」「繋げる」「深める」と分けた場合、チームや選手は「深める」、研究機関的な機能を持っていると思います。プレーする中で「こういう価値もあるんだ」「体現するとこうなんだ」みたいな。

例えば「100%を出すこと」「誰かのためにやること」は、口で言うのは簡単ですが、実際にはすごく難しい。苦しい時に自分自身に負けない、利他の精神を出せるのか。それでも選手は1枚1枚薄い紙を積み重ねてそれをやっています。それはクリアソンの価値の源泉です。究極、これが世の中にそのまま伝わればいいと思います。

簡単に言えば、ピッチの中で起きる大切にしたいことを、地域活動はそれを違う形にして広げること、営業はそれを繋げることです。自分が選手ではなくなって、役割が変わるイメージです。

ー一人の選手としてはどうですか

やめたいわけではありませんでした。できれば続けたい。離れることは悔しいというか、寂しいに近いかな。苦しいことも多いけど、楽しかった。ただ、その研究にかけていく時間と成果が自分の中で折り合いがつかなかったというのが正直なところです。

毎年、自分がサッカーを続けるべきかを迷っていました。関東リーグのころはまだできた、でもJFLに昇格して少し「きついな」と感じるようになりました。

だから、JFL1年目はプレー以外のところでも、チームに伝えられることを強く意識してしまいました。特に1年目は勝てない中で、チームがどこに向かっていくのか不安定になっている感覚があったので、その中でも「クリアソンとして何を残していくのか」というところです。

メンバー外の練習や、トレーニングマッチが充実して、自分が試合に出られなくても、そこで「これがクリアソンなんだ」と示すことができました。

ただ「選手として勝負しきったのか」「やり切ったと胸を張って言えるのか」というところが、振り返ってみると自信がありませんでした。だから、今年は1人の選手としてできるのかできないのかに挑戦しました。やり切らずに辞めておいて、後で「できたかも」はダサいので。

サッカーの実力に関係なく、理念について語り合えるコミュニティだった

ー引退のリリースでも、在籍した15シーズンを5年ごとの3期に分けていました。改めて、上・中・下に分けて振り返っていただければと思います。まずは、東京都社会人サッカーリーグ4部に参入してから、1部に昇格するまでの「上」です。

最初の5年は「草サッカー」でした。1、2年目はメンバーが平気で遅れてきたり、来るか来ないかわからなかったり。東京都2部でも3部でも1年ずつ足踏みしているので、良いメンバーが集まっていたけど、負けるたびに「これはやっちゃダメだよね」というように削ぎ落とされていった感じがします。

特にユサ(金裕士)が入りキャプテンになってから基本的なルールを徹底することにこだわってくれました。最後の一歩が出るかどうかは普段の行動で決まっているということを前提に、信頼関係を築くためでもありました。

「社会人サッカー」に「チーム」になっていった期間でした。

ー次に、最も苦戦した東京都1部での5年の「中」です。

株式会社Criacaoは東京都1部に昇格する前に起業しているので、クレイジーですよね。当時、上を目指すと宣言していたチームは多くなくて、サークル出身者の集まりだった我々はライバル視されていました。早稲田のア式蹴球部出身のアベ(阿部雄太)も「クリアソンなんか行くの?」と反対されてましたから。

でもそんなことは関係なくて、今、どれだけ真剣にサッカーやってるのかで闘えるリーグでした。

ただ、東京都では勝てても関東大会では勝てずに昇格を逃すということを繰り返していた時に、5年目にナリさん(成山一郎)が来てくれました。多様なメンバーがそれぞれの成功体験を発揮するのではなく、チームとしてやることを決めてくれた。

ナリさんがすごかったのは、就任した直後に去年優勝したチームに「どうすれば勝てるのか」「社会人サッカーには何が大事なのか」を聞きに行くところです。

当時、練習も週1回。土日の試合をあわせても週に2、3回しか会わないので、ナリさんがやりたいことではなくクリアソンの最適解を探してくれたし、リーグやチームの現在地を分析してくれました。

そのタイミングで、キャリア事業で繋がった実力のある体育会のメンバーが集まったことも、関東リーグに昇格できた大きな要因でした。

ー須藤岳晟や石川大貴など、関東の大学サッカーで一線級の選手が仲間になったのは、なぜだったんでしょう

ずっとあったのは「理念」。起業する前から「自分たちは何者なんだ」という話をずっとしていて「感動」という言葉が形作られました。それまであったルールは、信頼関係のために当たり前のことを当たり前にやるということでしたが、理念ができてからは「感動を創造する自分たちが、そんなレベルでいいんだっけ?」と基準が変わった。

スポーツだから勝ちたいし、勝たないと伝えられないものもあるけど「そうではない大事なものがいっぱいある」という言葉が平気で飛び交っていました。経歴で誰が偉いとか偉なくないとか、サッカーが上手下手とか、そんなことは関係なく語り合えるコミュニティになってました。

実力がある人ほど孤高になりがちですが、だからこそ そうしたコミュニティを欲していたんだと思います。その上で「サッカーの実力のあるお前に力を貸してほしいんだ」というリクルーティングをしていました。

ーそして関東リーグを駆け上がり、JFLまで到達した今シーズンまでの5年間「下」です

率直に楽しかったです。クリアソンという集団が走っているとしたとき、僕は最初は前を走っていて、それが真ん中になり、最後はすごく後ろの方になっていきました。付いていくだけで精一杯でしたが、集団のスピード自体が上がっているので、そこに自分がどう向き合うかだけでした。

試合に出られないのは苦しくもありましたが、でもナリさんはフェアで、きっと自分に実力があればJFLでも使ったくれたと思います。そういう信頼関係がありました。

この2年はサッカー面で与えてもらうものが多く、与えてあげられるものが少なくなった。貢献度が下がっていったので、さっきも話しましたがクリアソンが大事にしていることの発信を強めました。

毎練習後、誰かのところに行って「ここがよかった」と伝えにいくということを決めてました。うまくいかないときも、誰かが見てくれていて、このコミュニティにいて良かったと思えるように。

スポーツの価値を広げる

ー選手としては引退ですが、ビジネスパーソンとして、取締役として、クリアソンでの役割はこれまで以上に大きくなります。今後について考えていることを教えてください。

僕は大学のときはスポーツをしてきませんでしたし、僕がやりたいことは必ずしもスポーツじゃないといけないということはないのかもしれません。

でも、スポーツには大きな価値があります。夢中になれたり、本当に嬉しかったり、悔しかったり、ありとあらゆる気持ちが、スポーツには詰まっています。自分の感情を彩り豊かにしてくれるものです。この価値をもっと広げていきたいです。

僕は、ずっと日本ブラインドサッカー協会でダイバーシティ事業に関わってきました。障がいとの出会い方、体験の仕方によって、障がいに対しての考えが変わるという前提のもと、小・中学校の授業や、企業での研修を行ってきました。毎年毎年、そこでブラサカに触れる人たちがいるという威力はすごいんです。

クリアソンも、スポーツの価値をビジネスへ、ビジネスの価値をスポーツにという想いで事業をしてきました。クリアソンも「何のためにやっているのか」をもっと整理できれば、人を巻き込んでいけると思います。そして試合会場に足を運ぶ人たちが増えることで、豊かさの輪はもっと広がっていくはずです。

一方で、世界にはスポーツなんてやっている場合じゃない、そもそもの平和がない人たちもいます。仕事をしているときも、よく、そういう人たちの課題を解決するというところに目を向けるべきなのかもしれないとも考えます。

でも、まず自分たちはここで、スポーツの価値を通じて人を豊かにしたい。人は豊かじゃないと、自分の次の人のことを考えることはできません。豊かさが次の人へ次の人へと、広げていったり、繋げていったり、その起点になれるようにスポーツを使っていきたいです。

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