2022シーズンからクリアソン新宿のユニフォームに袖を通すことになった谷川勇磨。彼は、ヴィッセル神戸のアカデミーで小中高と過ごし、キャプテンもつとめた。しかし、ユースからのトップ昇格は叶わず、縁もゆかりもない福岡大学へ進学。すべては、「プロサッカー選手になる」ための決断だった。そんな彼は今、なぜクリアソン新宿にいるのか。
神戸から、縁もゆかりもない福岡へ
Q. 簡単に、これまでのサッカー人生を教えてください。
ヴィッセル神戸のアカデミーで小学校から高校までを過ごし、福岡大学に進学しました。神戸でサッカーをしていた時期は常にトップチームに刺激を受けて、プロになるとか日本代表になるとか、結果で示すことがサッカーのすべてだという考え方でした。
小中高とキャプテンをつとめた経験もあり「自分も絶対にプロになるんだ」という想いでいました。でも、ユースからトップチームに昇格できず、福岡大学でサッカーをすることを決めた形です。
Q. ユースから昇格できなかったとはいえ、注目されることも多かったと思います。
でも、高校3年生でキャプテンになったとき、自分が試合に出られなくて大きな挫折を味わったんです。危機感を覚えていましたし、キャプテンになって試合に出られないということは想定外でした。
チームで結果を出すことで注目されることは多くありましたが、“谷川勇磨”という1人のサッカー選手として見られたときには、まだまだ力がないのだと知りました。
ただ、これが大きな転機で、大学では誰も知り合いのいない新たな場所で、何もないところから勝負をしようと決めました。進路について監督やコーチ、先輩に相談する中で出てきたのが、縁もゆかりもない福岡の地でした。もちろんすべてはプロになるためでした。
Q. どんな大学サッカー生活を描いていましたか?
1年生からトップチームでバリバリ活躍し、毎年九州選抜に選ばれ、4年生の春には神戸から内定をもらっている…そんなイメージをしていました。
ただ、入部直後にけがをして、1年生のときはまったくサッカーができませんでした。正直、自信を持って入部したのに、同期が1年目から九州選抜に選ばれているのを見て、自分はけがで…。悔し過ぎました。
理想とのギャップには苦しみましたが、福岡大学サッカー部のコーチの福嶋さんとの出会いで救われる部分もありました。毎週、サッカーノートを提出するやり取りの中で、自分の思っていることを伝えたり、それに対してアドバイスをもらったりしていました。
そこで「自分自身にベクトルを向ける」という言葉をもらいました。今の状況を、人や環境のせいにしていることに気づき、そこから、日々「自分自身にベクトルを向ける」ことを意識しながらリハビリに取り組むようになりました。徐々に、余計なことを考えずに目の前のことに全力で取り組めるようになりました。
サッカーは手段である
Q. クリアソンとの出会ったのもこの時期だと聞いています。
大学1年生の夏休み、就職活動を控える体育会学生向けに岡本達也さんが、福岡大学でキャリアセミナーをしてくれました。僕はグラウンドの脇でリハビリをしていたんですけど、そこに来た達也さんに挨拶をしに行ったら、達也さんから「セミナーに参加しなよ」と言ってもらったことが最初です。何か良い予感がして、リハビリをすぐに切り上げて参加しました。
セミナーでは、達也さんが「サッカーは世の中を豊かにする手段なんだ」ということを本気で話していたことを鮮明に覚えています。当時の自分は「結果を出してプロになることがサッカーのすべてだ」と考えていたので、自分の固定概念を覆すことを本気で話している姿に衝撃を受けました。
それだけは本当によく覚えています。就活のやり方がどうとかは、正直あまり覚えていません(笑)。ただそれでも、プロになりたいという想いは変わりませんでした。
Q. その後の大学サッカーはどうでしたか?
2年生になり、けがから復帰して、徐々にパフォーマンスも良くなりました。3年生になり、トップチームで出場できると思っていたので、「このまま積み重ねれば、プロになれる」と確信していました。でも、3年生のときは再びけがを繰り返し、1年間サッカーができずに終わりました。
3年の終わりごろ、ようやく復帰できた日が忘れられない日となりました。久々にサッカーをして、心の底から楽しんでいる自分がいました。仲間と一緒にパスをする、ミニゲームで仲間とコミュニケーションを取る。勝敗だけでは語れない、サッカーの楽しさを感じていました。
この日をきっかけに、仲間と、何かを成し遂げる過程を大事にしながら目標を達成したいと、心の底から思うようになりました。
そして、このチームで勝つために、同期はもちろん、後輩、監督、コーチが何を思い、今何に向き合っているのか、コミュニケーションを取り、それを理解するために行動するようになりました。
そのときは気づいていませんでしたが、今思うと、復帰した日は「サッカーは手段である」ということを身を持って知った瞬間でした。
Q. 勝つことだけではないサッカーの楽しさを知ってから、プロへのこだわりに変化はありましたか?
もちろん、プロへのこだわりが消えたというわけではありませんが、今いる環境で、この仲間とサッカーに本気で向き合うことに意識が向くようになりました。
それと同時に、卒業後は「クリアソンでサッカーをしたい」と思うようにもなっていました。クリアソンが社会とのつながりを大切にしていることは、SNSを通じて知っていました。自分が大事にしていることと、クリアソンが大事にしていることが似ている感覚がありました。
クリアソンでサッカーがしたい
Q. そこから、どんな経緯でクリアソンへの加入が決まりましたか?
4年生になってからは、進路のことはあまり考えずに、仲間と共に目標達成することに集中していました。夏ごろ、福嶋さんあてに達也さんから「4年生で就活とかで悩んでいる部員はいませんか?」と連絡があり、それで、達也さんに卒業後のことついて相談させてもらいました。
「クリアソンでサッカーがしたい」と本気で思っていたので、面談の最後に「もしよかったら、練習参加をさせてください」と直談判をしました。福嶋さん経由でお願いもできましたが、直接気持ちを伝えたいと思ったので。そこから、丸山さん、成山監督、(原田)亮さんと話をして、秋ごろに1週間、練習に参加しました。
クリアソン以外でサッカーを続けたいと思うチームがなかったので、もしダメだったら、サッカーを辞めようと思っていました。そして、参加して数日後に成山監督から電話で「是非、一緒にやろう」と言っていただきました。
ただこの時点では、就職先は決まっていませんでした。「練習参加がしたい」ということを達也さんに伝えたときに、「クリアソンはサッカーだけをしているクラブではないから」と言ってもらい、夏から二人三脚で就職活動を本格的に始めました。
ただ、面接のときに「自分はサッカーをするので、両立は可能ですか?」と、正直に話してしまうこともありました。達也さんに相談すると「就活はサッカーを続けるためにやるわけではない。サッカー選手としての勇磨に向き合うこともいいけど、ビジネスパーソンとしての勇磨にも向き合った方がいいよ」と言ってもらって、はじめて就活に妥協している自分に気づきました。
そこからは、自分の人生を豊かにするために、就活にも本気で向き合うようになりました。自分がどんな人でありたいのかを考え、達也さんと壁打ちを繰り返しました。
そうして過去を振り返る中で、これまで自分はこれまで苦しいとき、悩んでいるときにたくさんの人たちに救われてきたことが、分かってきて…。それで、自分も社会人になったときに「人を救える人でありたい」と思うようになりました。
(森村)昂太さんなど、実際にクリアソンでサッカーとビジネスを両立をしている人に、その楽しさや難しさなどを相談させていただきながら、12月、自分が今度入社する会社に内定をもらいました。
Q. 最後に、サッカーと仕事の両立をする上での、今の想いを聞かせてください。
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