3.11から10年。当時、宮城県と福島県にいたクリアソン新宿のメンバーの経験を通して考える、新宿という街での防災

3.11から10年。当時、宮城県と福島県にいたクリアソン新宿のメンバーの経験を通して考える、新宿という街での防災

東日本大震災から今日で10年。

クリアソン新宿に所属する、宮城県仙台市出身の高橋滉也(#13)、福島県会津若松市出身の前田智子(トレーナー)に、それぞれの震災を語ってもらいました。

 

 

高橋 滉也(選手 #13/宮城県仙台市宮城野区出身)

3.11の1週間くらい前から既に強い地震が頻発していたので「次に揺れたら、一目散に逃げよう」と、冗談半分で友達と話していました。当時、僕は中学2年生で、 一つ上の先輩の卒業式前日。体育館に椅子を並べて、ほぼ準備が終わったときくらいに、東日本大震災が起きました。

揺れが凄かったんですが、出口近くにいたのですぐに外に逃げました。体育館を出たところの駐車場では先生たちの車がバウンドし、プールの水は波打って溢れ、何が起こったのか分かりませんでした。3、4分経って、やっと校庭に集合がかかり、全員の生存確認がされました。その間も余震が続き、ほぼずっと揺れているという感じでした。

先生たちも何が起きているのかわからずパニック状態で、地震が起きたのは14:46ですが、集団下校になった16:30までの2時間近く、ずっとただ校庭で待機していました。帰っている道中は、道に亀裂が入り、電信柱も倒れていて…、何とか家に戻っても、下駄箱が倒れてぐちゃぐちゃになっていて入れず、近くの友達の家に行きました。

親には、何度か電話をかけてやっと繋がり、スーパーの駐車場で落ち合うことになりました。既に暗かったので、19:00前くらいだったと思います。兄は仙台駅にいたのでその日は帰って来ることができず、両親と3人、スーパーの駐車場で夜を明かしました。3月は滅多に雪は降らないんですが、その日は雪で、とても寒かったことを覚えています。翌日は丸一日かけて、家を片付け、兄は仙台駅から2,3時間かけて歩いて帰ってきました。家族に会えたときの安心感は計り知れないものがありました。一人でいるとめちゃくちゃ不安で、押し潰されそうでした。

その後も、僕のマンションは1ヶ月くらいガスが止まり、お風呂に入ることができなかったのですが、家族ぐるみで仲良くしていた人が、オール電化だったのでお風呂に入らせてもらうことができ、周りの人たちとの繋がりは大事だと実感しました。

あとは、サッカーです。僕がサッカーをしていたのは、塩釜FCというチームで、塩釜市は港町なので、沿岸部に住んでいるチームメートも多く、練習が再開したのは、ゴールデンウィーク明けでした。再開後も、いつもは電車とバスで通っていたのですが、まだ動いていなかったので、自転車で1時間くらいかけて行きました。震災は大きな出来事でしたが、それでも「サッカーはサッカーだな」と感じました。みんなと会えること、みんなとサッカーできることが本当に嬉しくて、サッカーしているときはすべてを忘れて没頭していました。学校の閉鎖も長引いて、友達も会えず、メンタル的にもしんどかったので、久しぶりにサッカーできたときは、うまく言葉では言い表せないような気持ちでした。

また、少し経ってから、宮城県サッカー場(宮城県宮城郡利府町)に、Jリーグをはじめ、全国各地のサッカークラブから、たくさんの物資が届きました。僕はその仕分けのボランティアにも参加したのですが、膨大な数の支援物資にメッセージを付けて送ってくれた人たちがいて、それを見た瞬間に心打たれました。見ず知らずの人たちですけど「サッカー」を通して繋がっている、1人じゃない、そんな気持ちになりました。

仮に、新宿で大きな災害が起きたとき、もちろん新宿に住んでいる人もいますが、例えば仕事や電車の乗り換えで、たまたま新宿にいる人も多いのではないかと思います。そうした方々に対しての対応、支援は、また違った難しさがあるかもしれません。人も多いのでパニックになるのではと思います。

僕も新宿で働いて、新宿で乗り換えるので、そこにいるかもしれません。僕も少し意識が薄れてきているので、改めて考えておこうと思いました。防災は、当事者意識の問題で、例えば避難訓練があっても、自分は出なくてもいいなと思ってしまう。僕も震災以前は緊張感を持てていなかったので、その感覚は分かります。それでも、訓練だから逃げられると分かっていても「避難訓練をしている道が崩れて帰れない場合どうするのか?」というような視点を持っておくことで、有事のときの行動が違ってきます。

クリアソン新宿を応援してくれる方は、クリアソン新宿が発信をすれば、きっと考えてくれるはずです。試合会場で、防災のパンフレットを配ったり、アイテムを配ったりすることで、意識づけができるはずです。その先の防災のための行動は個人に委ねられる部分ではあるけれど、サッカークラブのような組織が発信し伝えていくことで、きっかけはつくれるはずなので、この経験を共有していくことにも挑戦していきたいです。

 


 

前田 智子(トレーナー/福島県会津若松市出身)

3.11のときは、高校2年生の冬でした。ちょうど模試の季節で、模試をやりたくないなと思っていたのを覚えています。地震が起きたのは、体育の授業中でした。本当に想像できない揺れで、死というものを身近に感じた瞬間でした。そのままみんなが校庭に集まって、整列して、やっていることは「避難訓練そのままだな」と思いながら、その間も大きい余震が続いて、とにかく不安と恐怖が強かったです。

学校に直接の大きな被害はありませんでしたが、サッカー部の顧問の先生がいわき市出身で、当時の携帯電話で見られたテレビに、いわき市の津波の様子が流れていて、私たちの前では動揺している姿を見せなかったけど、きっと大変な気持ちだったんだろうと思います。帰れる人は帰りましょうとなりましたが、公共交通機関がマヒしていたので、家が近い子で集まって、乗り合いで何とか帰宅しました。

会津若松市は割と山側にあるので、津波の被害はありませんでしたが、福島県全体としては、その後の原発の事故が大きな問題となりました。福島第一原子力発電所の所在地である大熊町からは、避難住民から学校・役場などの機能まで、丸ごと会津若松市に「全町避難」が行われました。自宅から徒歩圏の体育館もそうした方々の避難所になったので、私は受け入れる側として、ボランティアに行きました。そこでの仕事は、主に届いた食事などの物資を仕分けして、運んで、一列に並んだ人に配るというものでした。

印象に残っているのは、食べ物を配っているときに「また今日もこれなんですか」と言われたことです。スーパーにも何も置いていない状況で「仕方がないでしょ…」とも思いましたが、一つの体育館でプライベートがない環境に置かれて、ぶつける先がなかったんだろうな…と。緊急事態が起きたとき、知らない人が助け合うエピソードはたくさんありますが、実際には難しいこともあります。いつもと違った状況で、自分と違う属性の人に対して排他的になったり、優先順位をつけたりしてしまうかもしれない。そうしたときに、やっぱり頼りにできる人との付き合い、人との繋がりをつくっておくことも大事だと知りました。

また、準備しておくべきは「モノ」に対する知識はあるけど、正しい判断をできる「情報」を持っておくことも重要だと思います。震災のとき、放射線ってどれくらい危ないのかがわからなかったので、それが一番の不安でした。そもそも、原発って(水蒸気)爆発するんだ、何百年も安全だと思っていたけど津波が来るんだって。自分が住んでいる街・場所にどんなリスク、可能性があるのかを知っておくことです。同じ海抜でも、ここは危険/安全ということがあると思います。

例えば新宿区内でも「ここは危ないかもしれない」と、知っておく。一昨年の台風19号のとき、東京でもたくさんの被害が出て、はじめて分かったことがあったと思います。備えられるものと、備えられないものがあると思うんですけど、それでも知っておくことが、命を守る判断に繋がります。昔の人の知恵のようなものがなくても、そこに住んでいる期間が短くても、自分で調べることが大事です。行政・団体は、そうした情報を持っているはずなので。

もちろん、毎日毎日、防災のことを考えるわけにもいかないと思います。でも、3月11日は、必ずメディアは報道して、私たちはそれを目にする。1年に1回、みんなが考える機会になれば、震災は無駄にならないと思います。

 

 

 


人々の繋がりをつくり、社会に豊かさを提供しようとするクリアソン新宿は、都心・新宿という街の有事に備えて、何ができるのか。

「周りの人との繋がり大切さ」「正しい判断ができる情報を持っておく」など、実際に被災した二人からの学びをきっかけに、街と命を守る防災を、クリアソン新宿と新宿に関わる皆様と少しずつ考えていきたいと思っています。

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