Criacao Player’s Story −On the Road− Vol.7 恩田 雄基「ぶつかり、揉まれ、学び、日々進化する」

Criacao Player’s Story −On the Road− Vol.7 恩田 雄基「ぶつかり、揉まれ、学び、日々進化する」

Enrich the world. を掲げ「誰もが豊かさの体現者となれる社会」を目指す Criacao Shinjukuは、JFL昇格のために2020シーズンを戦う。その中でも、株式会社Criacaoではなく、それぞれの企業・大学に所属しながらプレーする選手たちにスポットを当てた連続企画。出身はJユースからサークルまで、現所属は大手企業から大学生まで、それぞれの立場の過去・現在・そして未来へと続くサッカー人生をひもとく。執筆を担当するのは、鹿屋体育大学サッカー部出身、現在はインターネット広告代理店勤務でクリエイティブ業務を行う 深澤 大乃進。選手たちの、昔と変わらない姿・変わっていく姿の両面に、第三者視点から迫る。


「ぶつかり、揉まれ、学ぶ。日々進化する」恩田 雄基
今回は、在籍五年目をむかえる恩田選手を取材。サッカーへの強い想いを持ち、周囲とぶつかりながら成長していく姿が、とても魅力的だった。早稲田大学での経験、そしてCriacao Shinjukuに出会ってからの自身の変化を、赤裸々に語ってもらった。

自分に自信があった

サッカーを始めたのは幼稚園に通っていた時。きっかけは友達の誘いだった。小学生の頃は、地元である飯能市の美杉台トゥギャザーというサッカークラブで伸び伸びとプレーをしていたが、六年生の時に地元の選抜チームに選ばれたことをきっかけにプロサッカー選手を目指すようになった。中学校進学時には、 Jリーグクラブの下部組織を複数受けたが不合格となり、地元のサッカークラブの坂戸ディプロマッツFCへ加入。Jリーグクラブの下部組織から不合格の連絡をもらったにも関わらず「大丈夫っしょ」「自分ならプロになれるはず」という根拠のない自信があった。

高校進学時はプロサッカー選手という目標を明確に意識するようになり、強豪校のセレクションに参加。最終的には、埼玉県内の西武台高校に進むことを決めた。サッカー部でも「試合に出られる」という根拠のない自信のもと、同級生がトップチームの練習に参加していると「なんで自分じゃないんだ!」という負けん気の強さが、恩田のエネルギー源になっていた。二年生になるとトップチームの試合に出場する機会が増え、全国大会も経験。スタメンに定着し、三年生ではキャプテンを任された。

しかし「チームをまとめるための、キャプテンとしての行動ができなかった」と話す。インターハイ、高校選手権ともに県予選で敗退となり、思うような結果を残せなかった。この一年間を「本気で、腹を割った話ができず、心の底から打ち解けられなかった」と振り返る。周りが何を感じているのか、どう思っているのかを知ろうともせず、全国大会を目指す理由も「自分がプロになりたいから」という自分ありきな考え方。「当時のチームメイトに対して申し訳なかった、もう一度、キャプテンをやり直したい」と悔しそうだった。


恩田選手が「自分ありき」のサッカーをしていたのは「自分が試合に出たい、自分が評価されたい」という想いが強かったからだ。サッカー経験者なら、自分ではなく同級生が評価されているとき「なんで自分じゃないんだ」と憤ったことが一度はあるのではないだろうか。この思考が良いか悪いか 僕にはわからないが、恩田選手にとってはこの気持ちが、サッカーを頑張る原動力になっていたのだろう。

最後に「もう一度キャプテンをやりたい」と語った背景には、早稲田大学ア式蹴球部とクリアソン新宿での経験が影響していると考える。この後のエピソードにはなるが、大学時代にはチームと本気でぶつかり合い、社会人になり多様な価値観を持った人たちとの関わり合う、そんな経験を通して「自分ありき」な考え方を見つめ直したからこそ「もう一度キャプテンをやりたい」と話しているのだろう。

真正面から仲間とぶつかる

大学進学時は自己推薦入試の制度を利用し、早稲田大学へ入学。ここでもプロサッカー選手を目指して、早稲田大学ア式蹴球部へ入部した。

高校時代と同じように「いつかは試合に出られるだろう」と考え、自分なりの100%でサッカーと向きあった。二年生からAチームに帯同するようになったが、ベンチに入れない日々が続いた。「プロになるために、なんとかして試合に出たい」と考えていた恩田には、焦りがあった。

そんな時、主将に次ぐチームのNo.2として、チームの運営周りなどを統括する主務という役割を、学年で決めるタイミングが訪れる。そして、恩田はこれを率先して引き受けた。もちろん主務の仕事で時間が取られ、自分の練習時間が減る可能性もあったが「そんなことは自分次第で、朝早くに練習をすればいい」と思った。むしろ自分が試合に出るために、主務と選手の両立をして周りからの信頼を得る、そう考えての選択だった。サッカーへの貪欲さは、健在だった。

しかし、高校時代と違っていたのは、恩田の学年が、腹を割って本音で話し合う学年だったことだ。学年ミーティングでは「言葉では言っているけど、行動できてないよね?」など、喧嘩の一歩手前のような、会話が多かった。これまで、自分に対してはストイックだが、仲間と向き合うことを避けていた恩田は「嫌だな、うるさいな」と思う時もあったという。しかし、信頼できる仲間に囲まれ、恩田自身も本音をぶつける機会が増えていった。そして、それが自分も頑張らないといけないと、新しいエネルギーにも変わっていった。

主将の金澤拓真氏と、二人三脚で歩んだ

早稲田大学ア式蹴球部での四年間は、自分とチームに対して、本気で向き合った時間だった。そして最後の年、関東大学サッカーリーグでの悲願の優勝を果たす。一方で、主務としてベンチには座り続けたものの、最後まで恩田はピッチを踏むことができなかった。ピッチはすぐ目の前にあったのに、それは叶わなかった。優勝した瞬間は嬉し涙を流した恩田だったが、表彰式になると、その悔しさが溢れてきた。


自分が試合に出るために主務に名乗り出たというのは、これまでと同様に、恩田選手のサッカーへの執着心を感じさせるものだ。しかし、学年ミーティングのエピソードでは、今までにはなかった、他者と向き合うという一面が現れる。高校時代、本気でチームと向き合えなかったことを後悔しているのは、こうした経験があるからだろう。ここで学んだ人との向き合い方が、次のステージではさらに磨かれ、行動と思考が変化していく。

様々な人たちとの関わり

心のどこかでは、サッカー選手になりたいと思いつつ「試合に出られていないし、まあ就職だな」と現実を受け止め、就職活動を始めた。同時にサッカーを続けたい気持ちも捨てきれず、関東サッカーリーグや、JFLを目指しているクラブを探した。

大学の先輩のである阿部 雄太(#1)がいたこと、クリアソン新宿代表の丸山と面識があったこともあり、クリアソン新宿に加入を決めた。しかし、大学四年間、常に仲間とぶつかることを大事にしてきた恩田の目には、クリアソン新宿のメンバーが、100%でサッカーに向き合っているように思えなかった。

自分の正義を証明するように、試合でも練習でも、チームメートを厳しく叱咤し、思ったことは全てぶつけていった。しかし、クリアソン新宿には、体育会出身だけではなく、サークル出身のメンバーも多く在籍し「本音でぶつかる=サッカーに真剣に取り組んでいる」という価値観は、必ずしも受け入れられたわけではなく、ハレーションを起こすことも少なくなかった。

丸山をはじめ、様々なメンバーから「そんな言い方じゃ伝わらない」と言われ続ける。関東サッカーリーグ2部の参入を懸けた、大一番の関東大会の初戦ではスタメンを外され、選手選考を決めていた 金裕士(2013年〜2019年在籍・現 Criacao Shinjuku Procriar)からは「試合に来るのであれば、頭を整理してきてほしい」と言われてしまう。「めちゃくちゃ腹がたったし、ムカついた」という。

そんな時、同じポジションでプレーしていた藤村将世(2015年〜2016年在籍)の存在に助けられる。関東大会が始まるまでは「自分みたいな、一年目にポジションを取られて、悔しくないのかな」くらいにしか考えていなかったが、立場が逆転して、試合に出ていなくても献身的にプレーをしていた彼の姿を思い出す。「ここで自分がふてくされるのは違う」と感じて、気持ちを新たに試合会場へ足を運ぶことができた。二回戦以降はスタメンに復帰したが、チームは結果を残せず、関東サッカーリーグへの昇格は叶わなかった。「自分はなぜサッカーをやっているんだろう」と、モヤモヤした気持ちは晴れないまま、クリアソン新宿での二年目をむかえた。試合には出場していたものの、周囲から信頼されていないことをひしひしと感じていた。藤村将世、岩崎晢朗(2013年〜2017年在籍)、剣持雅俊(#22)、原田亮(#9)など、チームで信頼されている人たちを見て、何か行動しないといけないと感じたが、空回りしてうまくいかず、遅刻を繰り返してしまうこともあった。

尊敬してやまない、岩崎晢朗(左)藤村将世(右)と

そんな恩田にとって、転機となったのは三年目のシーズン。チームのことだけではなく、転職を考え始めたことも重なって、より一層、自分自身について考えるようになった。大学までは「自分はサッカー選手になれるんじゃないか」と考えていたが叶わなかった現実、クリアソン新宿で出会った社会人たち、中村俊一(現 株式会社Criacao)との面談、上司からかけられた言葉、同僚との何気ない会話。恩田は「人を楽しくするための手段は、自分で決めていくこと」を大事にするようになった。

多くは語らなかったが、今までは、仲間と本気でぶつかり、どこか他人に対して答えを求めようとしていたのかもしれない。しかし、様々な人との関わりを通して、自分の人生に対するスタンスに変化が起きた。

こう考えるようになってから、チームメイトに対してのコミュニケーションも変わった。率先して宴会部長をつとめ、練習への不参加が続いている選手にもこまめに連絡をし、チームのために自分ができることを探した。他者との新しい向き合い方を身に付け、チーム内に恩田らしいポジションを築いている。

クリアソン新宿の公式チアリーダー e-kids にも大人気

様々な人たちとの関わりを通して、自分の立ち振る舞いを変えた恩田だったが、サッカーへの執着心はそのままだ。昨年の後期リーグで膝を負傷したが、痛みを抱えながら残りの数試合もスタメンとしてプレーし、関東サッカーリーグ2部の優勝に貢献した。しかし、シーズン終了後にくだった診断は前十字靭帯の断裂。靭帯が切れた状態でサッカーをしていたことが、あとからわかった。「自分が練習を休みレギュラーを取られたら、後悔してしまう」と語り、根っこに抱く、サッカーへのこだわりの強さをのぞかせた。

診断結果が出てからは、冷静になり「膝が痛くてプレーが中途半端だったのに休まなかったのは、自分本意だった」と反省した。「この一年で、サッカー人生が終わるわけではない」と考え、自分を信じてリハビリに取り組んでいる。

最後に、今年の意気込みを聞いた。シーズン前に「怪我をしていても、していなくても、チームへの向き合い方は変えずに、今年このチームでやり切る」と宣言をした恩田は「プレイヤーでもスタッフでも怪我人でも、目的に対し、組織の一員としてやれることはある」と力強く話してくれた。そして「JFL昇格を決める試合で復帰して、決勝ゴールを俺が決める」と、恩田らしい、サッカーへの貪欲な気持ちも見せてくれた。

「怪我をしていても、自分は何も変わらない」と、メンバー全員の前で静かに語った

他者との向き合い方が「本音でぶつかること」だと信じていた恩田選手は、社会人として社会の波に揉まれながら、またクリアソン新宿を通して多様なバックグラウンドと価値観を持っている人たちと関わりながら、他者を理解し、リスペクトし、行動が変化していった。その姿に人間味を感じた。

そんな過程を辿ってきたからこそ、恩田選手は、他者に対して自分から距離を縮め、寄り添うことができるのではないかと、僕は考える。その姿勢はチームメイト一人ひとりのことを知るために サシ飯の機会を作ったり、宴会部長を買って出たり、至るところに現れている。今ではチームで信頼される人間となり、e-kids から絶大な人気を誇るのも、うなずける。

だが、忘れてはいけない恩田選手の魅力は、サッカーへの執着心だ。前十字靭帯を断裂し、尋常じゃない痛みを抱えながらも、試合に出るためにプレーを続ける覚悟はまさに恩田選手らしい。普通の選手なら「試合に出たい」という想いはあっても、休む決断をするはずだ。

そして、恩田選手は、エピソードの節々で「クリアソン新宿の仲間の、懐の深さには感謝している」とチームへの愛を語った。様々な価値観に対して寛容なクリアソン新宿と、そこで進化を続ける恩田選手の復帰後の活躍に期待したい。

 

 


written by
深澤 大乃進(ふかさわ ひろのしん)
学生時代は選手兼広報として、SNS運用や集客を担当。現在は、インターネット広告代理店勤務でクリエイティブ業務を行う。会社の同僚が所属していたことをきっかけに、クリアソン新宿を知る。クリアソン新宿のメンバーと話していく中で、チームの方向性や活動する選手たちに魅力を感じ、取材を決意。

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