Jリーガーになって気づいた本当の原動力は

なぜ、Jリーガーになりたいのか。高校、大学と上がっていくにつれて、漠然とした「かっこいい」という理由から変わっていった。

「チームが一つとなって、出した結果で応援して下さる方に喜んでもらいたい」
「チームが一つになることで、自分の知らないところでも、感動を与えたい」

Jリーガーになれば、どれだけの方々に喜んでいただけるのだろうか。そう考えると、ワクワクが止まらなかった。

米原祐
兵庫県神戸市出身。5歳からサッカーを始め、岡山の作陽高校に進学し、サッカー部で主将を務める。3年次には、全国高校サッカー選手権でベスト8に進出し、日本高校選抜にも選出。大学は、関西学院大学に進学。大学3年次には、二度の日本一を含む大学サッカー史上初の四冠を達成。2017年の大学卒業後は、当時J3のSC相模原に入団しプロ生活を始める。2019年には、グルージャ盛岡に移籍。2020年からは、株式会社Criacaoの社員として、Criacao Shinjukuで選手として、ビジネスとサッカーの両立をしている。

Jリーガーになる

大卒で加入した相模原は、当時J3ながら観客動員が多く、週末の試合では3000人から5000人がスタジアムで応援してくれた。「ここで活躍すれば、多くの人に感動を与えられるのかもしれない」と感じた。そして、このチームには、日本サッカー界のレジェンドGK、川口能活さんがいた。「能活さんは、自分の人生に大きな影響を与えて下さった」と米原は言う。

例えば、大学生と練習試合をして負けた時に、泣いている姿を見て「自分はまだ目の前の勝負へのこだわりを持てていないことを痛感した」。ある時、米原のミスが敗因となった試合があった。苦しすぎる気持ちで臨んだ次の練習の時に、能活さんから呼ばれた。「自分もたくさんのミスをしてきた。ワールドカップでトンネルしちゃったり」と、そんなエピソードを笑いながら話してくれた。続けて、「その失敗を乗り越えた時に成長できるぞ。ヨネならできる」と声を掛けてもらった。米原は「その言葉が本当に自分を勇気づけてくれたし、支えになった」と感謝の気持ちを今も持っている。

ただ、目標であるJリーガーになったものの、スッキリとしないことがあった。「プロは個人事業主なので、自身の成果が大切。だからチームよりも個人を重んじる。それが悪いとか良いではなく、そういう世界で自分がプレーしていることのリアルを感じた」。自分自身も先発に定着しているわけではなく、必死にアピールする日々。個人で結果を出すことを最優先に努力していた。ただ、「自分に嘘をついてじゃないけど、個人の成果を求めて割り切ってサッカーをしている自分が嫌だった」と言う。

なぜ、米原はそう感じたのか。それは、高校、大学と主将を務めて、「チームで一つになって」戦うためにできることは何かと考え、行動してきた経験があるからだ。

高校で部員全員を一つにするためにしたこと

「全国高校サッカー選手権に出場したい」と、米原は親元を離れ、岡山県の強豪、作陽高校に進んだ。入学当初の部員は約150人。「1年生の時は、3年生が自分の名前を覚えてくれているのかも分からない状態だった」。お互いに関わることがない部員も多くいた。

主将になると、1年生の時に感じていた違和感に向き合った。学年関係なく全員がチームに帰属意識がある状態、メンバー同士が円滑にコミュニケーションを取れる状態をつくりたい。「チームが一つになる」ということを意識して動いた。1年生が担当していた雑用や掃除を、上級生がやるように変えた。米原自身も率先して行った。「上下関係を厳しくすることは、チームにとってプラスを生まない」と米原は考えていた。理不尽な上下関係は、できるだけなくす努力をする。

結果として、3年生の冬の全国高校選手権ではベスト8入り。入学前に定めていた目標は実現した。また、個人としても、日本高校選抜に選出された。それでも、米原は主将としての行動を振り返ると「自己満足の部分もあったかもしれない。また、後輩がどんなことを求めていたのか、どんなことを想っていたのかの答え合わせができていなかった」と言う。

見えない大きな壁を感じた日

関西学院大学では、Bチームからのスタートで、そこでの生活は長かった。高校時代の栄光から一転し、思うようなプレーが出来なかった。上手くいかない要因を周りのせいにしたこともあった。

「監督が評価してくれないからだ」「周りのメンバーが自分を活かしてくれないからだ」しかし、米原がそういった葛藤をしている一方で、プレーで引っ張る先輩や、低い評価を人のせいにせず、自分自身に矢印を向けて練習をしている同期もいた。そういう姿を見て、「周囲のせいにするのではなく、どんな時も自分自身が変わらないといけないと思うようになった」。取り組む姿勢は変わり、Aチームに昇格。3年次からは試合にも出場し、大学サッカー史上初の4冠達成にも貢献した。

4年生になると、主将に立候補して就任した。高校の時の反省を活かしながら、「チームが一つになって戦う」を実現しようと心に決めた。しかし、一筋縄ではいかなかった。

夏の総理大臣杯の予選で負けた試合を、今も鮮明に覚えている。負けたことはもちろん、それ以上に、試合に出ない応援メンバーとの心の距離を感じたことがショックだった。実際の距離はネットを挟んだ向こう側にいるだけで近かった。しかし、応援に来ていない者もいたのだった。「これまで自分が口にしていたチームの一体感は、上辺だけだった。自分は仲間の想いを背負ったつもりになっていた」。

だから、今まで以上に行動した。下のカテゴリーの練習にも参加し、部員一人一人との面談も地道に重ねていった。自分だけではできないので、Aチームの同期や4年生と力を合わせた。理想は高校時代と同じでも、周囲を巻き込むアプローチの仕方に大きな違いがあった。

その後の公式戦では、見えない大きな壁を感じたあの日とは違い、応援メンバーとピッチ上の選手が「一つになって戦う」試合ができた。「足りない部分もあったかもしれない」けれど、米原は自分の原動力に対して愚直に向き合うことができた。

対話を重ねて、自分の原動力に改めて気づく

高校時代とは違うリーダーシップを発揮し、大卒でJリーガーとなった。素晴らしい環境でサッカーができることに幸せを感じていた。ただ、個人で結果を出すことを最優先にする日々が、そうと割り切ってサッカーをしている自分が好きになれなかった。2019年、プロ3年目の米原は、いわてグルージャ盛岡(当時J3)に在籍していたが、翌年の契約は提示されなかった。「このままサッカーを続ける意味がまだあるのかどうか」を迷っていた。

そんな気持ちを、大学の一つ上の先輩である井筒(Criacao Shinjukuキャプテン)に相談した。「だったら、クリアソンでプレーしないか」と言われた。さらに、代表の丸山や取締役の竹田、選手の岡本や須藤とも対話を重ねて、自分の気持ちを丁寧に確かめた。クリアソンの理念などを聞き、「チームで一つになって戦う」に正直に、本気で向き合える環境ではないかと感じた。多くの人との面談を通じて、自分の原動力に改めて気づくことができた。

目の前のことを頑張ること

それは、米原にとって、人生を豊かにすることにつながっている。「チームで一つになって戦う」という原動力は、2シーズンプレーした今も米原を支えている。サッカークラブではもちろん、体育会学生のキャリア支援のキャリアアドバイザー(CA)として、学生と一つになって戦う。原動力は仕事も支えている。

米原は言う。「目の前の問題と真剣に向き合う事が、自分の原動力を見つけることに繋がる。自分も高校、大学、Jリーグ、クリアソンといろいろな経験をしてきたけど、苦しい局面で何とか踏ん張って、自分の想いに正直に行動できたからこそ、今の自分があると言い切れる。自分が感じた違和感、苦しい時の感情に向き合うことで、原動力は見えてくる。それは学生たちにも伝えたい」。

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