元Jリーガー岡本達也の就職活動

岡本達也、2年目でクビになる。

年代別の代表選手として日の丸をつけて国際大会を経験し、高校卒業時に小さい頃から夢見てきたジュビロ磐田と契約。しかし2年で戦力外通告を受けJリーガーを引退。

そこから3ヶ月後に大学受験をし、順天堂大学に進学。大学では「サッカーを通じて1人の人間としてどんな人間に成長していくのか?」を問い続けることが求められた。吉村監督から大学のサッカー部は、プロ選手を育てるための組織ではないと明言される。

プロ選手だったそれまでとは全く違った環境と価値観の中で、自分自身やチームメイトと向き合い続け、考え方や価値観を大きく揺さぶられる4年間を過ごしました。

卒業後にJ2の水戸ホーリーホックと契約し、再びプロサッカー選手に。人間として成長することで、サッカーの向き合い方にも変化が生まれる。サッカーに対して「自分が生き残るために」という視点だけでなく、「組織は何を必要としているのか」という視点でもサッカーと向き合えるようになった自分がいました。

水戸、鳥取でプレーをし、鳥取時代にはキャプテンを経験させて頂きました。身体能力が低く(とにかく足が遅かった)、突出した技術を持ち合わせているわけでもない自分が、能力者揃いのプロの世界で生き残っていくには、どう自分の強みを組織の中で最大限に発揮できる状況を生み出すか常に必死に考えていました。プレー以外の面でも、いろんな事にチャレンジしてみたいという想いのもと、当時、佐藤寿人選手が会長を務めていたJPFA(日本プロサッカー選手会)の副会長も務めさせて頂きました。

そして引退へ

2014年シーズンをもってプロサッカー選手を引退することを決めました。
引退の経緯としては、シーズン終了後にクラブから契約延長の意志があるものの、経営的な観点から、具体的な金額を提示できないと話をされ、結果的に資金の確保が難しく、契約満了となりました。1ヶ月間、タイでトライアウトも受け続けましたが、求めるような契約を勝ち取ることができず、帰国。自分の中で決めていた、「プロ選手として活動するライン」を踏まえ、1月末にプロサッカー選手を引退することを決めました。

今まで支えてくれたファンの皆様、仲間、監督、クラブの皆様には本当に感謝しています。

引退というと世の中的にネガティブな印象を持たれがちですが、(もちろん不安がなかったわけではありませんでしたが)自分は28歳で全く新たな事に挑戦できる事に対してのワクワクと、自分自身の可能性への期待の方が上回っていました。サッカー選手という冠を外した時に、自分が社会の中でどんな価値を発揮できるのか、何ができるのか、まだ見ぬ未知の世界と、その中に飛び込む自分へのワクワクを胸に引退しました。

28歳で就職活動

引退も突然きたので、サッカー選手を引退した後にどんな仕事をしたいとか、具体的に何か考えていたわけでも決まっていたわけではありませんでしたが、選手をしながら感じていた違和感はありました。

指導者になったり、サッカー界で働く元選手の方に、その道を選んだ理由について聞くと多くの方が「サッカーしかしてきてないから」といったニュアンスで話をされる方が多く、仕事について聞いても「やっぱり選手が一番だよ」とか「生活していくためには頑張らないとね」といった言葉を多く耳にしました。

本当に強い想い、大きな志や目標を持ってプロフェッショナルとして指導者の道を選ぶ方がいる一方で、盲目的に流れでなんとなくその道に進んでいる人もいるのだと強いショックを受けました。

プロサッカー選手として競争環境の中で闘っていくために、小さな頃から自分自身と向き合い、様々な工夫を施し、チャレンジをしてきたはずの人達が、自分の可能性を信じられず、引退した途端に自分のすぐ手の届く範囲の中しか見ようとせず、自分の仕事に意義や、やりがいを感じれずに生きている事に大きな違和感と失望を感じました。

だからこそプロ選手を引退してからは、何者でもなくなった自分、丸裸になったタイミングで、できる限り広く社会を見た上で、自分自身の可能性について模索し、その上で自分自身がどう生きていきたいのかを考える事にしました。

運命の会社に出会ったのは偶然

僕は思考よりも行動が先に来るタイプなので、タイから帰ってきて引退を決めた後、とにかくまずはいろんな人に出会って、自分の知らない世界を知りたいと、東京に出ました。知人、友人の家、カプセルホテルを転々としながら、自分の知り合いから知り合いを繋げてもらって、とにかく人に会ってどんな仕事をしてるのか、どんな生き方をしている人がいるのか、自分の中での知的好奇心のままに動きました。

Criacao(クリアソン)との出会いはその中の一つ。僕がタイでのチャレンジ中に書いたブログを見て、大学時代のチームメイトの友達が僕にFBにメッセージをくれたことがきっかけでした。

「もし引退する時は絶対に会ってほしい人がいるので、連絡してください!!」

1人でも多くの人と会って話がしたいと思っている中だったので、東京に行く事を決めた瞬間に連絡をして会わせてもらう事にしました。その時は自分の中でもまだ会わせて頂く人達の中の1人、1社でしかありませんでした。
初めてオフィスに行かせてもらった時の衝撃は今でも忘れません笑

ボロボロなビルの中で出会った、心ある人たち

築何年経つんだ??というボロボロの雑居ビルの5-6畳くらいのスペースに大の大人が3人と大学生のインターンが2人、所狭しと仕事をしていました。僕の中の「オフィス = 丸の内高層ビル」みたいなイメージを思いっきりぶち壊されましたが、東京で出会った誰よりも、丸山、剣持、竹田が自分達の仕事に対して熱く、イキイキと語り、未来を描き、目を輝かせていた事に衝撃を受けました。

その当時、自分には伊藤忠商事(丸山の前職)とかロバートウォルターズ(剣持の前職)とか全くわからなかったし、Criacaoの事業に対して理解する事も全くできませんでしたが、漠然と「自分もあんな風に生きていきたい。サッカー選手だった時と同じくらい、いやそれ以上に幸せとやりがいをたくさん感じながら、イキイキと、生きていきたい」と自分の中で何かが明確になった瞬間でした。

就職活動中は色んな人にアドバイスをもらった

その後もいろんな人とお話させて頂きました。
「とにかくお金を稼ぐ事が大事だ」
「ある程度の大企業に入って安定(?)を得なくちゃ意味がない」
「教員免許あるならやるべきでは?君、向いてるよ!」
「今さらビジネス入ってもね…オファーあるならサッカー界で頑張れば??」
「この企業ならすぐ紹介できるけど、どう??」

たくさんの方々が自分のために貴重な意見を、その方の見えている角度からアドバイスをしてくれました。
その中で自分が感じた事は、「今の自分の少ない情報量の中だと決められない」という事と、サッカー界でも教育界でもなく、今まで接してこなかったビジネスの世界に惹かれている自分がいた事。

その後もクリアソンの丸山の紹介で数多くの素晴らしいビジネスパーソンや経営者に会わせてもらう機会に恵まれたのですが、心から自分の仕事に目的意識や意義、やりがいを持って活動されている方々が多く、本当に自分の仕事を楽しそうに、イキイキと語ってくれました。

そんな方々にこの時期に数多く出会えた事は僕にとって何物にも代えがたい宝物のような出会いでした。ビジネスの世界でチャレンジしたいって改めて感じさせてもらう出会いをたくさん頂きました。

クリアソンに入社を決めた

その最も大きな理由は、インターンに参加して事業に携わる中で本質的に事業を理解する事ができた、会社が掲げている理念、そしてメンバーが信じている事に対して、自分が激しく共感し、人生をかけてそんな社会を創っていきたいと思えた事。

それはプロサッカー選手として、少し特殊なキャリアを歩んできた自分自身の原体験によるところも大きかったのかもしれない。スポーツによって人間は大きく変化する、人生が大きく変わっていく事を自分自身の人生を通じて強く感じてきた。

スポーツが競技以外の側面でも人や社会に対して、様々な影響を与える事を実体験として持っている、スポーツの価値やスポーツの持つ可能性を信じられる自分だったからこそ、どんな企業の理念よりもクリアソンの理念に共感し、人生をかけてチャレンジしたいと感じたんだと思います。

プロ選手を引退する事を決めてから、全くやるつもりのなかったサッカーも、クリアソンというクラブが大切にしている価値観が自分のサッカーの価値観とリンクしたから、プレーする目的を見出す事ができました。僕にとってサッカーは「人間関係のスポーツ」あり、お互いが足りないものを補完しあえるスポーツであるところ、そして人間関係を育む事がチームを強くしていく事に直結すると思っています。それは今までの自分のサッカー人生においてそういった経験を数多く経験してきた事もそうですし、僕みたいな身体能力も技術も大したことのない選手がプロ選手になれたのは間違いなく、「サッカー」だったからで、サッカーに先ほど挙げたような要素が欠かせないからだと確信しています。

自分が大切にしてきた事を世の中に対して発信しようとしているクラブだったから、このクラブで再びプレーする事を決めました。カテゴリーが下がろうが、目的を共有できるのであれば全く問題ないと考えました。